熱して冷ませず

昨日の続き。

中毒になっていた時期は断じて、黒歴史ではないと思う。ネット中毒にしても、馬鹿らしくなるときはやってくるが、それまで楽しんでいた時間はかけがえのない思い出になる。

日本人は、熱しやすく冷めやすい。更に、中毒になっていたり熱狂していたものが冷めると、その時期をいとも簡単に貶してしまう傾向があるように思う。なぜに、自分が熱中したことを、そうも簡単に切り捨ててしまうのか?アイドルだろうとアニメだろうとネットゲームだろうと韓国ドラマだろうと、本気で熱中して楽しんでたんだから、もっと堂々としてればいいのに、何も恥ずかしいことはないのに。

では、なぜにこういう傾向があるのか?それは恐らく、世間様に笑われたりする前に、自分で黒歴史にしてしまえば、世間様から笑われることはなくなるからだと思う。日本では世間様の力が余りにも強大だ。教育やメディアなどを通して、世間様から笑われること(≒多数派から外れること)は致命的なことだと潜在意識に刷り込まれてしまう。だから、何としてでも世間様から笑われることは避けたい。その回避行動として、世間様から攻撃される前に、自分で自分を攻撃する。そうすれば、世間様から攻撃されるという最悪の事態は回避される。

でも、それでも、その当時の自分は、それが楽しくて楽しくて仕方なかったんだから、尊重してあげればいいのにと思う。それに、どれだけ過去を貶したとしても、そのとき熱中したコンテンツに楽しませてもらったこと、今の自分を作ってくれたこと。この事実は一生変わらない。だったら、世間様の空気に同調・迎合して過去を貶したり恥ずかしがるより、堂々と感謝する方が得じゃないだろうか?

これから何をするにしても、過去に裏付けされた個性が発揮される。これから新しく出会うこと、それは仕事だろうと人間関係だろうと趣味だろうと、どういう切り口で、どういう方法で、それに取り組んでいくのか?この個性と出会うことで、どういう化学反応が起こるのか?どういう思い出が生まれるのか?

唯一無二の過去に裏付けされた個性を発揮して、ユニークな方法で攻略していくからこそ、人生は面白い。

例え、村八分されることになったとしても、過去を肯定して、自分自身を尊重して、個性を発揮していくことだと思う。社会で評価されるかどうかは関係ない。まず第一に人生を楽しむために、個性を発揮していくべき。個性を発揮出来れば、成功するかどうかは分からないが、楽しいことだけは間違いない。

 

ネット中毒

中高生の間では、ネット依存症・スマホ依存症が問題になってるようだ。

別にいいじゃんと思うが……。これから一生ネットと付き合って生きていくわけで。早めにネット中毒を体験しておいた方がいいと思う。

私も高校時代に体験したことがあるが、私の場合は2ちゃんねるだったんだけど、多分こんな感じだと思う。

自分のお気に入りのスレに、何か書き込まれているんじゃないかと思って何度も更新してしまう。その繰り返しで中々終われない。誰かが書き込んでくれたんじゃないかと思って、何度も更新してしまう。これには終わりがないから、終われない。そうして、この無駄な作業の影響で寝る時間がどんどん遅くなっていく……。

誰かが何か面白い情報を発信しているかもしれない。だから、チェックしないといけない……。この誘惑は、経験してみないと分からないものだ。何と言うか、ギャンブル的な誘惑がある。2ちゃんねるにしても、有益な書き込みなんてのは、1000レス中1つか2つあればいい方だ。つまり、滅茶苦茶非効率的。でも、やめられない。

ただ、この状態をある程度経験すると、馬鹿らしくなるときがやってくる。そもそも、ネットなんて人生を楽しむためのツールでしかないわけで、そのたかがツールに無駄な時間を掛けて、他に自分がやりたいことの時間を削るなんて馬鹿らしいと。でも、ネット中毒を体験してみないと、これは分からないと思う。

だから、ネット中毒にならないための一番の方法は、一度でもネット中毒を経験してそこから冷めることだと思う。で、中高生のときにそれを経験しておけば、社会人以降でネット中毒になる確率は滅茶苦茶低くなる(もちろん、確率統計的に継続する人も出てくるが)。つまり、長期的に見れば、スマホ依存症が社会問題になるのは、それほど悪いことではないと思う。

 

レッテルの続き

レッテルの続き。

自分で自分にコミュ障やらアスペルガーというレッテルを貼ってる人もいるんだが、これは自己否定ではなく、アイデンティティーの強化。ピラミッドの中に所属していることを確認するために、自分を卑下している。

それと、自分にそういうレッテルを貼ることによって、コミュ力を上達させる努力から解放される。本当にコミュ力の先に自分が欲しいものがあったら、そんなレッテルなんて貼ってられない(それより先に跳び上がる、努力してる)。つまり、コミュ力の先に待っている報酬を内心で貶しているからこそ、そういうレッテルを自分に貼れるのである。人間は、何の利益もなしに自分を貶すことは絶対に出来ない。

だから、そんな遠回りなことなどせずに、素直に言えばいいのである。「一人の時間の方が楽しい」「コミュ力ある人が別に羨ましくない」と。それが、あなたの価値観なのだから。自己肯定感・満足度が世界最低のピラミッドに迎合する必要などない。同調圧力に屈することなく、楽しいものは楽しい、楽しくないものは楽しくないという自分自身の価値観に従うことだ。

価値観が人間関係に特化している人達が幸せな生き方の一般解のようになっているが、それは幸せな生き方の特殊解の一つでしかない。幸せな生き方の一般解は、自分の価値観に従って、自分にとっての至福を享受すること。

ただ、自分の価値観に従えと、そう言葉で言うのは簡単だが、実践するのは難しい(同調圧力が強い日本では特に)。しかし、本物の至福はその先にしかない。まずは自分の価値観に従って、自分自身を満たすこと。一見遠回りに見えるが、自分が望む全ての果実を回収できるルートはこれしかない。

自分自身を至福で満たしていくと、それが溢れ出てきて、今まで興味のなかったことが楽しくなったりしてくる。何が人生に楽しみをもたらすのかは分からない。だからこそ、今を最大限に楽しんで、人生の平均値を上げていくべきなのだ。

最後に、日本社会の精神構造について、あと2点ほど。

リア充至上主義というのは、ある意味でリア充を差別している。なぜなら、友達が多かったり、恋愛経験が豊富だったり、そのためのリア充の努力を認めていないからだ。ナチュラルに何の努力もなしにその状態が維持されてると思われてる。何と言うか、泥臭く努力するのは格好悪い的な風潮が表れてるとも言えるが……(そりゃあ、中国や韓国にも逆転されるだろうと……)。

あと、日本では、一番上のマイノリティーではなく、あくまで中の上が一番称賛される。大昔からそういう社会だから、そう簡単には変わらない。例えば、年収1000万プレイヤーは羨望の眼差しで見られることが多いが、年収1億超えの経営者とかプロ野球選手とか芸能人となると……。

 

レッテルのリスク

日本社会は、レッテルを貼るのが大好きである。レッテルを貼って、その人の個性を殺してしまう。レッテルを貼られたら、そのレッテル通りのキャラクターを演じなければ、空気が読めないとなってしまう。

で、このレッテル貼りにも、ちゃんとした社会的な意味がある。それは、階層の形成。レッテルを貼ることによって、逆転するのが難しい社会が形成されていってしまう。なぜなら、レッテルが貼られていたら、人々はそこで思考停止して、それ以上考えなくなってしまうからだ。

どんなことだろうと、誰だって最初の内は下手糞だ。どんな天才だろうと、下手糞の時期を通過して上手くなっていく。だが、レッテルが存在していると、構造的に上達しないんだと思考停止してしまう。努力しても無駄なんだと思ってしまう。つまり、レッテル貼りには、下剋上を防止する効果がある。

レッテルには社会を効率的に回せるという側面もある。だが、やはりリスクもある。それは、人生の豊かさを考える機会がなくなってしまうこと。要するに、価値観の脆弱性に繋がってしまう。

私が思うに、(1)人生を楽しむこと、(2)自分を愛すること、(3)幸せを与えること、この3つは道なのだ。いくら十分だと思っても限界がない。一生、死ぬまで探究していく価値がある道なのだ。つまり、人生を充実させていく道には限界が無い。レッテルを貼ってそこで立ち止まってしまうのは本当に勿体無い。常に自分の人生に満足して、幸福を追求していこうぜと。どんなレッテルを貼られようと、泥臭く自分自身の幸せを追求していこうぜと。

しかし、マイノリティー(これもレッテルか?)にならないと、こういう考えには至らないんだから、日本社会は精神的にかなり脆弱だと思う。人間個人個人の幸せを追求できる仕様になっていない。

 

得意・不得意

自分が得意だと思うことには、どうしてもバイアスが掛かってしまう。

自分にとって当たり前過ぎて気付かないようなことが、本当の意味で自分の得意なことだったりする。逆に自分で得意だと思っているようなことは、あくまでそうなりたいという願望であることが多い。

これについては、自分の評価よりも、バイアスが掛からない他人の評価や客観的な結果を信用した方がいい。人に指摘されたり人から評価されて初めて、自分の得意なことが分かる。

自分が得意だと思っていることが実はそうでもなかったり、逆に自分では良くないと思い込んでることが実はそうでもなかったりする。自分で自分の強みだと思っていることよりは、他人がそう評価してくれた部分を伸ばしていくべきだと思う。他の人達は高く評価してくれているのに、自分勝手なセルフイメージでそれを否定するのは勿体無い。

ただ、人生全体で考えれば、人間には得意・不得意なんてなくて、自分の強みを生かせさえすれば、どんな不得意なことでも得意なことになってしまう。

例えば、製造業で考えてみれば、ここ100年の歴史で、一番製造業が得意な国はどこか?イギリスか?アメリカか?日本か?ドイツか?韓国か?中国か?

たった100年の間に王者がコロコロ変わってるわけで、どことも言えないだろう。ただ、王者になってるときの共通点はあると思う。それは、運が良かったことと、自国の強みを最大限に生かしたこと。運が良いときは長所が最大の武器になるが、運が悪いときは長所が最大の弱点になる。だから、厳密な意味では人間に得意・不得意というのはなく、自分の強みを生かせるかどうかだと思う。国や企業ですらも得意分野がコロコロ変わるんだから、人間一人一人の人生で何が得意分野になるかなんて誰にも分からん。

ただ、最初に書いたように、自分が得意だと思いたいことに固執してしまうと、自分の可能性を狭めてしまう。本当に人生は先が読めない。それまで辿ってきた道からすると信じられないようなことが滅茶苦茶楽しくなったりする。やってみないと分からない。だが、自分はこうなんだと決め付けてしまうと、それをやってみることさえもシャットアウトされてしまう。

 

情報解釈

人間は、同じ情報にも関わらず、それを解釈して良い気分になることも、嫌な気分になることも出来る。

いずれの場合も、自分に都合良く情報を解釈するわけだが、自分が攻撃されてると感じるような情報というのは、その情報の発信者には何の悪意もないのに、自分自身で都合良く情報を解釈して、勝手に攻撃されていると思い込んでいる。

例えば、劣等感/コンプレックスというものは、本人しか気にしていない。他人からすれば「なぜにそんなことで?」というようなことが、劣等感/コンプレックスになっている。つまり、自分に都合良く情報を解釈して、それを劣等感/コンプレックスと結び付けることで、嫌な気分になっている。

そもそも、人はどうして情報を発信するのかと言うと、全ては自分の信念のため。例えば、ネット上でアンチ活動してる人も、全部自分のためにやっている。人間は、純粋に誰かを誹謗中傷することは出来ない。自分の信念を守るための行動しか出来ない。だから、純粋に誰かを攻撃するためだけの情報というのは存在していない。間接的に誰かを攻撃する情報はある。だがそれにしても、その誰かを直接攻撃するための情報ではない。つまり、あらゆる情報発信は、全て自分自身のためだけに行われていると言える(言うまでもなく、当サイトも例外ではない)。

だから、何らかの情報を見て、攻撃されている!と感じた場合は、ちょっと落ち着いて、自分が掛けてしまったバイアスを認識してから、再度情報を解釈した方がいい。それは攻撃されたんじゃなくて、自分が攻撃されたと自分で都合良く解釈しただけ。もしかしたら、自分にとって有益な情報かもしれない。

 

都合の良いイメージ

人は、自分の信念と対立する案が出てくると、極論を出してそれを否定することがある。つまり、自己正当化するために、都合の良いイメージを作り出してしまうのだ。

例えば、改造コードを肯定すると、「改造コードなんて使ったら、ゲームが簡単になってつまらなくなる」という意見が返ってくることがある。いや、あくまで、つまらない退屈な単純作業を作業圧縮するためにだけ使えばいいと言っているのだが……。ゲームをより楽しむためのツールとして改造コードの使用を推奨しているんであって、そんな使い方をしては本末転倒である。ちなみにこれ、改造コード使う前の私もこんな感じの信念を持ってた。

あとは、信用口座を開くのは危険だという意見もある。この場合は、信用口座を開いたら、常に全力信用で取引しなければいけないという極論が持ち出される。……いや、信用買い出来るのは便利だし、空売りをするために開いた方がいいんであって、全力信用でやれなんて一言も言ってないんだが……。信用口座を開いた上で、小さい玉建てていけばいいじゃんと。と言うか、それが正しい信用口座の使い方。総資金の200~300%の玉になるのは、含み益を担保にして増し玉していったときだけにしないと危険。

あとは、クレジットカードは危険というのもある。これも、キャッシングやらリボ払いやら使わなければいいだけ。消費規律が確立してたら、カードでポイント還元した方が現金で買うより得。

信念の性質で厄介なのは、相手のことを親身に思って提案していることであったとしても、相手の信念に背いていることだったら人格攻撃だと認識されてしまうことだ。

大事なのは、取り敢えずやってみて、意外とイケそうだったら取り入れてみることだと思う。合わなかったら破棄すればいい。試してもいないのに、都合の良いイメージで最初から否定してしまうというのは、余りにも勿体無い。

どうせ失うものなんて何もないんだから、取り敢えずやってみようぜ。

 

破滅願望

人間は誰しもが、破滅願望を持っている。ただ違いがあるのは、その破滅願望が活性化してるかどうか。破滅願望が活性化していると、滅亡に向かうような行動を取ってしまう。

では、破滅願望はどういうときに活性化するのかと言うと、失敗や敗北の直後というのが一つ。「バクマン。」の「タントやめたい!」も、まさにこれだ。

トレードの話をすると、何らかの不運に見舞われて、1回のトレードで3ヶ月分の利益を吹き飛ばしてしまったとする。そうなると、一刻も早くそれを取り戻さなければいけないという感情になり、資金管理を無視したとんでもなくでかい玉でトレードして、更にとんでもないことになってしまう。

破滅願望が暴走しているときは辛いが、このときは一発逆転に賭けてはいけない。仮に、その「まじん斬り」が当たったとしても、そういうことを続けていたらいつかは破滅してしまう。

破滅願望が活性化するのは、失敗や敗北の直後だけではない。成功や勝利の直後にも活性化する場合がある。

これも、トレードの例を出すと、物凄い利益を叩き出したとする。そうなると、もう一度物凄い利益が叩き出せると思い込んで、資金管理を無視したとんでもなくでかい玉でトレードして、とんでもないことになってしまう。

逆転してやろうという野心を持つのはいいが、一発逆転は狙うべきではない。人生は短期決戦ではなく、長期戦である。自分に出来ることを継続していけば、必然的に成果は出てくる。逆転するために奇策など必要ない。コツコツとスキルを磨き続けていけばいい。諦めずに、毎日継続していけばいい。この正攻法こそが、一番の近道なのだ。

とにかく、続けること、やめないこと、諦めないことである。継続することには、才能を凌駕する圧倒的な優位性がある。自分よりも遥かに才能がある人達が、続けられなくなって脱落していく。要は、結果が出なくても続けられるかどうか。だって、結果が出てる人達だって、続けられないのだから。

 

跳び上がる

願望を叶えるには、この世界に対して、その意思を示していくことが何よりも大事だと思う。例え、何も起こらなかったとしてもだ。今はこの世界が何も起こしていなくても、自分は何か起こしていくんだぞと。行動という形にして、その意思をこの世界に示していくことだと思う。と言うか、この世界に願望が存在している時点で、この世界は既に反応している。この世界は既に反応済みで、次は自分自身がどういう反応をするか。つまり、それが欲しいですという意思をこの世界に示せばいい。自分に出来ることをやったら、あとはこの世界の反応を待つしかない。この世界から反応が返ってきたら、また行動する。そうやって、この世界とのコミュニケーションを続けていくしかない。

まあ、それはともかく、自分のアイデンティティーに基づいた本物の願望というものがある。

人間は他人の持ってる何かを見て「羨ましい」とは言うものの、本心からそう言うことはまずない。人間、本当に羨ましいこと(アイデンティティーに根差した願望)を目の当たりにすると、言葉より先に跳び上がるのです。

「バクマン。」で滅茶苦茶好きなシーンがある。それは、王道漫画を描きたいにも関わらず、ギャグ漫画を描いている現実に葛藤していた亜城木夢叶(真城)が、王道漫画を描いて成功を収めていたライバルの新妻エイジにテレビ番組で挑発されて、泣き叫ぶように「タントやめたい!」という正直な気持ちを彼女の亜豆さんに打ち明けるシーンだ。それから、亜城木夢叶は博打を打つわけだが、まさにこれ。本当に羨ましいことがあると、跳び上がるのです。どんな壁が立ち塞がっていようと、何が何でも自分には出来る!と思う。その夢を達成するためには、何だって利用するだろうし、何だってやるだろう。「出来ない」なんて思わないというか、完全スルー。それより先に跳び上がる。反射してしまう。

だが、この状態、破滅願望丸出しでかなり危険でもある。現に、亜城木夢叶も博打を打った。成功したから良かったものの、もしも上手く行ってなかったら……。

 

人生の攻略法

人生を攻略するには、自分に与えられた運命を完全に受け入れることが大事だと思う。とまあ、文章で書くのは簡単だが、これが中々難しい。ただ、これさえ出来れば、人生は攻略したも同然だよなあと思う。与えられた運命を楽しめる能力、これさえあれば人生で恐れることなどなくなるだろう。

どういう人生を歩んできてようと、自分に与えられた運命を完全に受け入れて、そこから歩いて行くこと。それはつまり、「どういう道を歩んでいこうか?」というんじゃなくて、ゼロベース思考で、「この道をどうやって攻略しようか?」という姿勢。この与えられた人生を、どうやってより良いものにしていこうかという姿勢。前者は理想からのマイナス査定で、後者はゼロからのプラス査定になる。

どうしても、人は比べてしまうし、理想や期待感を抱いてしまう。自分の人生に100%完全に集中するのは難しい。

戦後直後の日本は、ゼロベース思考から始まったんだと思う。ドン底まで行くと、もはや失うものが何もなくなるから、ゼロベース思考になる。その運命を受け入れて、自分に出来ることから始める他なくなる。その結果、リスクを取れなかった持つ者を、ゼロベース思考にならざるを得なくてリスクを取った持たざる者が逆転してしまう。

では、ドン底に陥る以外に、ゼロベース思考になるにはどうすればいいのだろうか?これ、危険な場合がある。逆境は求めてはいけないのだ。

例えば、何かを始めようと思っているが、中々その一歩が踏み出せないとする。このとき、嫌なことが起こって逆境に陥れば、その一歩が踏み出せるようになるんじゃないかなあと思うかもしれない。人間にはそういう気持ち悪い信念がある。

だが、その願望通りに嫌なことが起こって逆境に陥ったとしても、初めの一歩が踏み出せるということはない。嫌なことが起こって、ただ惨めなだけ。何となく、嫌なことが起これば開き直れるみたいなイメージはある。何かを失わない限り、何かを手に入れてはいけないみたいなね。例えば、日本と中国が戦争になったら、平和ボケになった日本人が目覚めるかもしれないとか。実際は、悲惨極まりないことになって終わりだろう。あと、このまま日本で人口減少が進めば、さすがにどこかで少子化が改善されて、歪な人口ピラミッドも是正されていくだろうというのも、同じく悲惨な結末になると思う。

結局、何かを始めようと決心して踏み出せるのは大抵の場合、プラスの出来事からだけ。プラスのエネルギーを帯びてることからしか、何かを始めようとはならない。だから、マイナスの出来事を期待してはならない。人生に多大なる果実をもたらす逆境は、自然な流れの中で必然的に起こる。