格差社会

アベノミクスで格差が更に広がると言われているが、ずっと下にいた立場から言わせてもらうと、少なくとも私は、その格差の上に行くために頑張ってきた。だから、格差がないと困る。

逆襲が成功しても中流にしかしてもらえないって……。

格差社会を批判するのはいいが、上に行こうとしている下の人間もいるのだ。そもそも格差社会を否定するんだったら、まずは今まで叩かれていたフリーターやニートなどの下流が中流になれるような政策を支持すべきじゃないかと。もちろん、中流以上の税金を使ってね。格差社会の是正と言うと、金持ちや成金の足を引っ張るような話ばっかりで、底辺を引き上げるような話が全く出てこない。むしろ、生活保護などのセーフティネットが叩かれる始末。

つまり、大多数の日本人は格差社会を望んでいるのだ。上の存在が出来るのは嫌だから格差社会を批判してはいるけど、下の存在が自分と対等になるのはもっと嫌なのだろう。まさに、抑圧委譲の原理が働いているんだと思う。

格差に関連してもう一つ。

前にも書いたが、転売屋は嫌われる。他国でも転売屋・投機家は印象が良くはないだろうが、ここまで叩かれる風潮はないと思う。これは、日本に資本主義が根付いてないからこういうことが起こるんだと思う。

転売屋は素晴らしい仕事だとしか言いようがない。ヘタレのメーカーに代わって、本当に欲しい人が買えるようになるマーケットを作り出しているのだから。転売屋を排除したければ、メーカーが公式オークションすればいいだけの話。だが、人気コンテンツの市場価格がベラボウに高くなってしまうと(それが正常なのだが)、人気コンテンツはファンが多いだけに多くの苦情が殺到するだろうから、それを恐れて出来ない。だから、転売屋を叩く前に、まずはメーカーを叩かないといかんのだ。転売屋がサヤ取り出来るような価格で売り出してしまうメーカーがヘタレなのだから。

別に、全ての在庫を公式オークションする必要はなくて、8割から9割位は今まで通りの価格でランダムに売ればいい。新規ファンの流動性を確保しておくためにもね。で、そこから漏れてしまった熱心なファンのために、残り1割をメーカーが公式オークションすればいい。これで、転売行為はほぼ完全に防げる。

しかし、1億総中流意識が国民に浸透していて、先進国の中で最も市場を信頼していない日本で、そんな市場原理に基づいた商売が堂々と出来るはずがない。そんなことをしたメーカーは、転売屋以上に叩かれることだろう。不買運動が起こる可能性すらある。メーカーは、そのようなリスクを恐れるため、今まで通りの限定版商法を続ける。そこに、転売屋が付け込む隙が生まれる。これが何度も何度も繰り返され、転売屋は何度も何度も利益を得る。

なお、一応書いておくが、私は転売屋を擁護しているわけでも、転売をしているわけでもなく、単に市場原理を支持しているだけ。

滅茶苦茶努力して上流になったのに、運が悪かっただけで何があろうと行きたかったライブに行けない社会と、運が悪くてもカネさえ出せば行けるようになる社会と、どっちの社会が活性化するだろうか?

 

コミュ力とは?

信じられないような目標を持つって、口で言うのは簡単だ。それを持てれば苦労しないよってね。

でも、ワクワクしないか?

自分でも信じられないような目標を持つと、そこから「引き寄せの法則」が働く。新しい物語・プロジェクトがそこから始まる。学業・仕事か人間関係か趣味かは分からないが、この過程で登場するコンテンツは、かなりの高確率でレジェンド級になるだろう。ドン底からしか始まらない物語がある。ドン底を体験した者だけが得られる果実がある。だから、死ぬ前に、出来るだけ足掻いてみようぜと。そりゃあ、辛い現実あるけどさ。

あと、社交的な性格・価値観を持っているかどうかというのと、コミュ力があるかどうかというのは違う。そもそも、コミュ力がないって、誰が決めたのか?自分で都合良く、そう思ってないだろうか?

日本では、コミュ力の定義が空気で決まってしまう。私の場合、コミュ力があると言われるときもあれば、コミュ力がないと言われる場合もある。だから、コミュ力があるのかないのかよく分からない。実におかしい話である。

しかし、社会で一番必要とされてる能力の定義が空気で決まってしまうって……。日本らしいと言えば日本らしいんだが、合理的な社会とは言えないだろうし、先進国としてどうなのかと思う。

いざ、コミュ力を発達させよう!と思っても、その定義が空気でいくらでも変化してしまうから、具体的に何をどう発達させればいいのかが分からない。結局、生まれつきの社交性となってしまう。これでは、閉塞感が漂うに決まっとる。

例えば、これが学力だったら、大抵の場合は学力=テストの点数と定義されてるわけで、やるべき努力が具体的になる。大学入試を学力重視から人物重視にするというが、これは日本の強みを破壊することにしかならないだろう。

コミュ力の定義、いっそのこと、Facebookの友達数とかTwitterのフォロワーの数とかでもいいと思う。とにかく、何らかの形で定義しておけば、その方向に努力するインセンティブが生まれる。

 

スクールカースト

私の学生時代にも、スクールカースト的な階層っぽいものが微かにあるかな?と思う程度には存在していたが、勉強や運動で十分に巻き返すことが出来た。つまり、誰でも努力次第でヒーローになれるチャンスがあった。多様性があったし、相互に干渉はしなかった。だが、最近のスクールカーストは尋常じゃないらしい。

で、和田秀樹先生によると、学校での競争を否定した結果、人気でしか差別化出来なくなってしまった。だから、人気至上主義になって、スクールカースト的なものが強くなってしまう。

恐ろしいねえ。要するに、社交的な価値観・性格の持ち主でないと詰んでるわけだ。ただ、社交的な価値観・性格でない以上、同じ土俵で勝負しても更に辛いだけだと思う。だから、まずは自分の価値観を満たしていくしかないんじゃないかと。

で、残念ながら、 日本が置かれてる状況からすると、この流れは止まらないと思う。グローバル化で、後進国がどんどん仕事を奪っていくわけで、これからの日本にはサービス産業しか残らない。それはつまり、対人スキルが必要な仕事だ。だから、日本国としても、社交性がある人をおだてておく必要がある。日本社会的には、スクールカーストが蔓延してるのには都合の良い部分もあるわけだ。だから、社交性がない人に対する風当たりが強くなることはあっても、弱くなることはないんじゃないかと。私も一人の時間が好きだから、書いてて嫌になってくるんだが(一人の時間の楽しみ方を知らない人間が多数派だから、一人でいることに偏見が出来ているんだと思う)。ただ、これが現実。下手に現実逃避した方が、残酷だと思う。

これの何が辛いって、得意なことを生かせるかどうかだと思うんですね。社交性がある人は、それをそのまま生かすことで仕事も人間関係も上手くいくと。でも、社交性がない人は、得意なことをそのまま生かしても仕事も人間関係も上手くいかない。これが辛いと思う。不公平な現実だ。しかも、この状態が永続してしまう可能性が強い。そうなるともう、絶望するしかない。

かなり難しいことではあるが、結局、よりよい人生を求めていくしかないんじゃないかなと。現実的な目標ではなくて、実現したらびっくりするような理想を、何か一つ持っておくこと。それは、どのような逆境があったとしても、それに回帰して現実逃避できるような理想だ。ある種の神として、すがれる対象として、到底信じられないような理想を持つ。これこそが、本当の意味で夢や希望と呼ばれるものではないだろうか?

 

マイノリティーの価値観2

ポケモンのパーティ構築やパワポケの育成理論作りは、ゲームというよりは数学や理科に近い。一般的なポケモンユーザー、パワポケユーザーが求めているエンタメ性からは非常に乖離した作業なのは間違いない。もしこの作業が楽しいものだと認識されていたら、理系離れなどとっくに解消してる。

だが、これは中々理解されない価値観だ。ダメージ計算ツールを弄って耐久調整するのが楽しくて楽しくて仕方ないという感覚は中々理解されない。パワポケの育成理論の場合、育成理論通りにサクセス回す→育成理論改善→回す…を何度も何度も繰り返していって、育成理論を改善していくわけだが、これは傍から見れば同じ作業の繰り返し。この単純作業が楽しいと言っても、まあ理解してはもらえないだろう。

そもそも、勉強が楽しいと言うと、なぜか白い目で見られてしまう風潮がある。これは、勉強=辛く苦しいものという固定概念が多数派にあるからだと思う。だから、中間テストや期末テストは祭り以外の何物でもなかったと言っても、一般的には冗談としか受け取られないだろう。

まあ、それはともかく、

株やFXの失敗談コピペ

こういうの見てるといつも思うんだが、なぜに、そんなに急いで一発逆転する必要があるのだろうか?と。

自分の価値観を理解してなくて、貧乏でも楽しめるライフスタイルを確立していないか。もしくは、2ちゃんねるの”おまいら”と同調するため、注目してもらうためにわざとこういうことをしているか。それ以外に考えられない。

このコピペは、余りにも馬鹿らしくて突っ込む気にもなれないが、こういう話が拡大解釈されて広まって、信用口座は危険だとなってしまう。信用口座が危険なんじゃなくて、最初から全力信用という資金管理に問題があるだけなのだが……。

ただ、資金管理や検証、統計の話は一般的にはつまらない話だ。だから、表には出てこない。世間一般が興味あるのは、銘柄だけ。こういうとき、勉強が楽しいと思える価値観の持ち主で良かったと思う。

マイノリティーの価値観は理解されなくてモヤモヤすることがあるが、少数派だからこそ、その果実を独占できるというメリットもある。同調や「承認の欲求」は、その他の部分で得ていけばいい。

 

略奪せよ!

後ろ向きな感情から出てきた願望というのは、大抵は良い結果を産まない。○○がないから、○○が出来ないから、この仕事をやるしかないというような後ろ向きな考えは捨てるべきだと思う。そうじゃなくて、自分のやりたい仕事をする、自分の望むような人生を送る。そのためには、何だってする。これを基本姿勢にすることが大事。

苦手なことがあったとしても、それは一旦考えから捨てるべきだ。そうやって、出来るだけまっさらな状態で自分について考える。どういう人生を送りたいか、どういう自分になりたいかを考える。この目標を達成するために苦手なことを克服する必要があったとしても、その過程で自然と克服される。しかし、○○が苦手だ、○○が出来ないという思い込みがあると、自分が望むような人生を送るための道を(無意識の内に)閉ざしてしまうことになるかもしれない。

いずれにしても、後ろ向きだったり何かを守り通すといったような受動的な考えはやめた方がいい。略奪してやる!!位の気持ちでいくべき。この世界から、自分が望む以上の現実を勝ち取ってやるんだと。ほぼ間違いなく言えることは、国や社会(他者)は、自分が望む人生を与えてはくれない。自分が望む生き方をしようとすると、かなりの高確率で反発を食うことだろう。理想を凌駕する現実は、誰も与えてはくれない。自分の手で勝ち取らなければいけない。

 

熱して冷ませず

昨日の続き。

中毒になっていた時期は断じて、黒歴史ではないと思う。ネット中毒にしても、馬鹿らしくなるときはやってくるが、それまで楽しんでいた時間はかけがえのない思い出になる。

日本人は、熱しやすく冷めやすい。更に、中毒になっていたり熱狂していたものが冷めると、その時期をいとも簡単に貶してしまう傾向があるように思う。なぜに、自分が熱中したことを、そうも簡単に切り捨ててしまうのか?アイドルだろうとアニメだろうとネットゲームだろうと韓国ドラマだろうと、本気で熱中して楽しんでたんだから、もっと堂々としてればいいのに、何も恥ずかしいことはないのに。

では、なぜにこういう傾向があるのか?それは恐らく、世間様に笑われたりする前に、自分で黒歴史にしてしまえば、世間様から笑われることはなくなるからだと思う。日本では世間様の力が余りにも強大だ。教育やメディアなどを通して、世間様から笑われること(≒多数派から外れること)は致命的なことだと潜在意識に刷り込まれてしまう。だから、何としてでも世間様から笑われることは避けたい。その回避行動として、世間様から攻撃される前に、自分で自分を攻撃する。そうすれば、世間様から攻撃されるという最悪の事態は回避される。

でも、それでも、その当時の自分は、それが楽しくて楽しくて仕方なかったんだから、尊重してあげればいいのにと思う。それに、どれだけ過去を貶したとしても、そのとき熱中したコンテンツに楽しませてもらったこと、今の自分を作ってくれたこと。この事実は一生変わらない。だったら、世間様の空気に同調・迎合して過去を貶したり恥ずかしがるより、堂々と感謝する方が得じゃないだろうか?

これから何をするにしても、過去に裏付けされた個性が発揮される。これから新しく出会うこと、それは仕事だろうと人間関係だろうと趣味だろうと、どういう切り口で、どういう方法で、それに取り組んでいくのか?この個性と出会うことで、どういう化学反応が起こるのか?どういう思い出が生まれるのか?

唯一無二の過去に裏付けされた個性を発揮して、ユニークな方法で攻略していくからこそ、人生は面白い。

例え、村八分されることになったとしても、過去を肯定して、自分自身を尊重して、個性を発揮していくことだと思う。社会で評価されるかどうかは関係ない。まず第一に人生を楽しむために、個性を発揮していくべき。個性を発揮出来れば、成功するかどうかは分からないが、楽しいことだけは間違いない。

 

レッテルの続き

レッテルの続き。

自分で自分にコミュ障やらアスペルガーというレッテルを貼ってる人もいるんだが、これは自己否定ではなく、アイデンティティーの強化。ピラミッドの中に所属していることを確認するために、自分を卑下している。

それと、自分にそういうレッテルを貼ることによって、コミュ力を上達させる努力から解放される。本当にコミュ力の先に自分が欲しいものがあったら、そんなレッテルなんて貼ってられない(それより先に跳び上がる、努力してる)。つまり、コミュ力の先に待っている報酬を内心で貶しているからこそ、そういうレッテルを自分に貼れるのである。人間は、何の利益もなしに自分を貶すことは絶対に出来ない。

だから、そんな遠回りなことなどせずに、素直に言えばいいのである。「一人の時間の方が楽しい」「コミュ力ある人が別に羨ましくない」と。それが、あなたの価値観なのだから。自己肯定感・満足度が世界最低のピラミッドに迎合する必要などない。同調圧力に屈することなく、楽しいものは楽しい、楽しくないものは楽しくないという自分自身の価値観に従うことだ。

価値観が人間関係に特化している人達が幸せな生き方の一般解のようになっているが、それは幸せな生き方の特殊解の一つでしかない。幸せな生き方の一般解は、自分の価値観に従って、自分にとっての至福を享受すること。

ただ、自分の価値観に従えと、そう言葉で言うのは簡単だが、実践するのは難しい(同調圧力が強い日本では特に)。しかし、本物の至福はその先にしかない。まずは自分の価値観に従って、自分自身を満たすこと。一見遠回りに見えるが、自分が望む全ての果実を回収できるルートはこれしかない。

自分自身を至福で満たしていくと、それが溢れ出てきて、今まで興味のなかったことが楽しくなったりしてくる。何が人生に楽しみをもたらすのかは分からない。だからこそ、今を最大限に楽しんで、人生の平均値を上げていくべきなのだ。

最後に、日本社会の精神構造について、あと2点ほど。

リア充至上主義というのは、ある意味でリア充を差別している。なぜなら、友達が多かったり、恋愛経験が豊富だったり、そのためのリア充の努力を認めていないからだ。ナチュラルに何の努力もなしにその状態が維持されてると思われてる。何と言うか、泥臭く努力するのは格好悪い的な風潮が表れてるとも言えるが……(そりゃあ、中国や韓国にも逆転されるだろうと……)。

あと、日本では、一番上のマイノリティーではなく、あくまで中の上が一番称賛される。大昔からそういう社会だから、そう簡単には変わらない。例えば、年収1000万プレイヤーは羨望の眼差しで見られることが多いが、年収1億超えの経営者とかプロ野球選手とか芸能人となると……。

 

レッテルのリスク

日本社会は、レッテルを貼るのが大好きである。レッテルを貼って、その人の個性を殺してしまう。レッテルを貼られたら、そのレッテル通りのキャラクターを演じなければ、空気が読めないとなってしまう。

で、このレッテル貼りにも、ちゃんとした社会的な意味がある。それは、階層の形成。レッテルを貼ることによって、逆転するのが難しい社会が形成されていってしまう。なぜなら、レッテルが貼られていたら、人々はそこで思考停止して、それ以上考えなくなってしまうからだ。

どんなことだろうと、誰だって最初の内は下手糞だ。どんな天才だろうと、下手糞の時期を通過して上手くなっていく。だが、レッテルが存在していると、構造的に上達しないんだと思考停止してしまう。努力しても無駄なんだと思ってしまう。つまり、レッテル貼りには、下剋上を防止する効果がある。

レッテルには社会を効率的に回せるという側面もある。だが、やはりリスクもある。それは、人生の豊かさを考える機会がなくなってしまうこと。要するに、価値観の脆弱性に繋がってしまう。

私が思うに、(1)人生を楽しむこと、(2)自分を愛すること、(3)幸せを与えること、この3つは道なのだ。いくら十分だと思っても限界がない。一生、死ぬまで探究していく価値がある道なのだ。つまり、人生を充実させていく道には限界が無い。レッテルを貼ってそこで立ち止まってしまうのは本当に勿体無い。常に自分の人生に満足して、幸福を追求していこうぜと。どんなレッテルを貼られようと、泥臭く自分自身の幸せを追求していこうぜと。

しかし、マイノリティー(これもレッテルか?)にならないと、こういう考えには至らないんだから、日本社会は精神的にかなり脆弱だと思う。人間個人個人の幸せを追求できる仕様になっていない。

 

破滅願望

人間は誰しもが、破滅願望を持っている。ただ違いがあるのは、その破滅願望が活性化してるかどうか。破滅願望が活性化していると、滅亡に向かうような行動を取ってしまう。

では、破滅願望はどういうときに活性化するのかと言うと、失敗や敗北の直後というのが一つ。「バクマン。」の「タントやめたい!」も、まさにこれだ。

トレードの話をすると、何らかの不運に見舞われて、1回のトレードで3ヶ月分の利益を吹き飛ばしてしまったとする。そうなると、一刻も早くそれを取り戻さなければいけないという感情になり、資金管理を無視したとんでもなくでかい玉でトレードして、更にとんでもないことになってしまう。

破滅願望が暴走しているときは辛いが、このときは一発逆転に賭けてはいけない。仮に、その「まじん斬り」が当たったとしても、そういうことを続けていたらいつかは破滅してしまう。

破滅願望が活性化するのは、失敗や敗北の直後だけではない。成功や勝利の直後にも活性化する場合がある。

これも、トレードの例を出すと、物凄い利益を叩き出したとする。そうなると、もう一度物凄い利益が叩き出せると思い込んで、資金管理を無視したとんでもなくでかい玉でトレードして、とんでもないことになってしまう。

逆転してやろうという野心を持つのはいいが、一発逆転は狙うべきではない。人生は短期決戦ではなく、長期戦である。自分に出来ることを継続していけば、必然的に成果は出てくる。逆転するために奇策など必要ない。コツコツとスキルを磨き続けていけばいい。諦めずに、毎日継続していけばいい。この正攻法こそが、一番の近道なのだ。

とにかく、続けること、やめないこと、諦めないことである。継続することには、才能を凌駕する圧倒的な優位性がある。自分よりも遥かに才能がある人達が、続けられなくなって脱落していく。要は、結果が出なくても続けられるかどうか。だって、結果が出てる人達だって、続けられないのだから。

 

価値観の淘汰

日本からイスラム国に参加しようとした人がいたようだ。そりゃあ、世界中でイスラム国に参加する人が出ているんだから、統計的に考えて、日本からも数人は出てくるだろうと。別に驚くことではない。日本人は全員が同じ価値観を共有しているだろうという、この前提が恐ろしい……。

日本人はマイノリティーを差別するのは得意なのかもしれないが、マイノリティーを淘汰・支配するのは下手。なぜなら、この前提があるから。マイノリティーも自分達と全く同じ価値観を持っているという前提で接するから、マイノリティーの価値観を理解できない。どうすればマイノリティーを淘汰・支配出来るのかが全く分かっていない。

例えば、マイノリティーにとっては羨ましくも何ともないことなのに、マイノリティーがそれを手に入れられないのは努力不足や自己責任だみたいな、訳の分からない一人相撲が行われている。マイノリティーにとっては特に欲しくもないものなのだが、それを持っていないマイノリティーは不幸だと決め付けている。マイノリティー的には「???」。価値観の同化政策でもやってるのだろうか?としか思わない。洗脳されてるようにしか見えない。つまり、それではマイノリティーを淘汰・支配出来んのだ。

価値観で淘汰・支配するには、同調圧力を使って、マジョリティーの価値観を信じているヒトはみんな幸せで、マジョリティーの価値観を信じていないヒトはみんな幸せじゃないという状況を作り上げてしまえばいい。

例えば、ニートや生活保護(マイノリティー)を淘汰するには、働いている人達の大半(マジョリティー)が幸せであることを見せつければいい。つまり、ブラック企業もワーキングプアも存在しない社会を作り上げてしまえばいいのだ。あとは放っておけばいい。これはどんな社会的レッテルや差別よりも効果的だし、何が何でも自分の能力をフル活用して働きたくなる。価値観で淘汰・支配するってのは、こういうこと。

日本は、異端児にとっては生き辛い社会だと思う。ただ、それでも私は、この国が好きだし、感謝している。ポケモンもパワポケもFFもドラクエも面白いが、人生ほど面白いゲームは存在しない。だって、これらのレジェンド級のゲームですらもミニゲームの一部なんですぜ。この社会のお陰で、色んな夢を叶えることが出来たし、こんなに楽しい人生を送ることが出来ているんだから、社会が悪いはずがない。この社会にはいくら感謝しても、感謝しきれない。